ニップン(前鶴俊哉社長)は3月16日、東京・虎ノ門のオークラ東京で、故・澤田浩会長の「お別れの会」を開催し、約1000名の関係者が参列した。会場では、新型コロナウイルス感染症拡大防止対策を採り、会食は行わず、献花で故人の冥福を祈った。当日会場で配布された前鶴社長による弔辞「澤田会長を偲ぶ」を掲載する。

「澤田会長、去る11月21日にあなたの突然の悲報に接し、私たちは驚きと深い悲しみに包まれております。

あなたは、1931年1月に東京都で出生され、1953年3月に一橋大学経済学部をご卒業になり、同年4月に当社に入社されて以来、実に68年もの長い歳月を、当社とともに歩んでこられました。入社後、当時の業務部に配属となり、米国での社員研修や東南アジアを中心とした輸出業務など、当社の先駆けとなる事案を担当されました。

1980年に千葉工場長、1982年に業務部長、1983年には取締役に就任され、その後は常務取締役、専務取締役を歴任され、1993年に社長に就任されました。あなたは長く原料小麦の調達や輸出に関わる業務を担当されてきましたが、取締役になられてからは営業、開発、海外事業、宣伝広報担当等としても力を振るわれ、当社発展のために多大な貢献をされました。社長に就任されてからは、業績が低迷していた当社を筋肉質の強靱な企業体質に変えていくことを目標に据えられ、ただちに経営改革の具体案を作成し実行に移されました。

まず、製粉事業において内陸工場を閉鎖し、原料小麦の調達に有利な臨海工場への集約を進めるとともに、臨海工場の生産能力増強を推進されました。

食品事業においては、プレミックス工場やパスタ工場、冷凍食品工場の新設や生産能力を増強され、さらには成長著しい中食産業分野への進出を決断され、総合的な多角的食品企業としての基礎を固められました。

全従業員に利益意識の徹底を求めたうえで、論語の「先難而後獲(難しきを先にして獲るを後にす)」という言葉を引き、全員一丸となって改革に取り組もうと呼びかけました。その成果は、目に見える形となって表れ、あなたの経営改革の方向が正しかったことが証明されました。長年にわたり経営トップの重責を担い、阪神・淡路大震災や東日本大震災といった天災、リーマンショックに代表される世界的な経済危機等の局面においても、自ら先頭に立って、幾多の困難に立ち向かわれ、当社を導いていただきました。

当社が創立125周年を迎える2021年初頭に、社名から「製粉」の文字を外し「株式会社ニップン」に社名変更することを決断されました。

社名変更発表の記者会見の際、『あの保守的なニップンさんが、こんなにアグレッシブな会社に変わったと言われるくらいの変化を遂げていきたい』と仰っていました。そのお言葉を忘れずに私たち役職員一同は、既存の事業以外へも成長の分野を広げ、会長のご期待に沿えるよう、名実ともに「多角的総合食品企業」を目指し、社員一丸となって全力を尽くすことをお誓い申し上げます。ここに謹んでご冥福をお祈りするとともに、今後も私たちを見守っていてくださることを願いながら、お別れの言葉といたします」。

〈澤田浩氏略歴〉
1931年1月1日生。1953年3月一橋大学経済学部卒業、1953年4月日本製粉(現ニップン)入社。1980年6月千葉工場長、1982年6月業務部長、1983年6月取締役業務部長、1986年6月常務取締役業務部長、1988年10月常務取締役関東監督役兼北海道監督役、1989年6月専務取締役北海道監督役、1991年6月代表取締役 専務取締役、1993年6月代表取締役社長、2002年6月代表取締役会長、2009年6月代表取締役会長兼社長、2012年6月代表取締役会長(C.E.O.)。1996年4月藍綬褒章、2005年4月旭日中綬章、2007年9月イタリア共和国功労勲章「カヴァリエーレ(騎士)章」。製粉協会会長を1993年、1997年、2001年、2009年(各8月~翌年7月)の計4回務めた。日本・トルコ協会会長も務めた。2021年11月21日永眠、享年90歳。2021年12月正五位。

〈米麦日報2022年3月17日付〉