1976年1月、「三ツ矢サイダー」のCMソングが1年だけ山下達郎だった理由【シティポップと食品産業】
デビュー50周年イヤーを精力的に走り抜けたシンガーソングライター、山下達郎さん。昨今のシティポップブームの象徴的存在でもある彼が、プロミュージシャンとしてのキャリアの初期に手掛けたのが「三ツ矢サイダー」(朝日麦酒、現・アサヒ飲料)のCMソングだ。
朝日麦酒はなぜ、当時まだレコードデビューすらしていない山下さんにCMソングを託したのか。その背景には、1970年代の炭酸飲料市場を巡る熾烈な競争があった。
1961年のコーラ飲料原液の輸入完全自由化をきっかけに、国内の炭酸飲料市場は急速に成長した。当時の国産サイダー飲料の主な購買層が主婦層だったのに対し、「コカ・コーラ」「ペプシコーラ」といった海外ブランドは若年層にアピールすることでシェアを拡大。
市場構造はすでにこの時点で逆転していた。1966年にはコーラ飲料の消費量がサイダーを上回り、翌1967年にはサイダー3,090万箱に対しコーラ飲料は4,290万箱と、その差はさらに広がった(アサヒ飲料「三ツ矢ブランド史」)。
ここに追い打ちをかけたのが1969年に発生した食品業界を襲ったチクロショックだ。「三ツ矢サイダー」も生産停止と原材料の全面的な見直しを強いられ、チクロを使用していなかったライバルの「キリンレモン」(麒麟麦酒、現・キリンビバレッジ)はこの間隙を縫って国内サイダーブランド首位の座を奪っていった。
このため朝日麦酒は70年代、「三ツ矢サイダー」の販売戦略を若者向けに刷新。1973年からはシンガーソングライターの大瀧詠一さん(元はっぴいえんど)の書き下ろしCMソングを使ったテレビCMをスタート。
翌1974年からはモデルの風吹ジュンさんを“サイダーガール”として起用し、「サイダーのようにさわやかに。」のコピーとともにブランドの価値を訴求した。次いで同社が企画したのがフレーバー炭酸飲料「三ツ矢フルーツソーダ」。日本コカ・コーラの人気商品「ファンタ」に対抗したもので、CMにも斬新さと先進性が求められた。白羽の矢が立ったのが、当時大瀧さんの元でメジャーデビューを目指していたバンド、シュガー・ベイブと、山下達郎さんだった。
「この『三ツ矢フルーツソーダ』というのは『サイダー』の姉妹品で、代理店の人は大瀧氏の後ろでウロウロしていた私にぴったりだと思ったのでしょう。サーフィン・ホット・ロッド風のリズム・パターンに当時最先端の楽器だったクラビネットを加えたアレンジ。ココナツ・パンクとシュガー・ベイブが合体してのレコーディングでした」(『山下達郎CM全集 Vol.1 Second Edition』ライナーノーツ)
山下さんにとっては「三愛バーゲンフェスティバル」に次ぐ2作目のCMソング。1950~1960年代のアメリカンポップスに強く影響を受けたコーラスワークとビートは、それまでの日本の音楽シーンに存在しないものだった。
ちなみにこの仕事で山下さんには作曲料として7万円が、別途シュガー・ベイブとして一人2万円が支払われたという(『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男ともうひとつのJ-POP』 田家秀樹・徳間書店)。当時の大卒初任給は7万8700円だから、まだ駆け出しのバンドメンバーにとっては音楽活動を続ける大きな支えとなったはずだ。
この仕事が評価され、山下さんは同年「不二家ハートチョコレート」のCMソングも手掛けている。当時、山下さんの実家は東京・練馬で駄菓子屋を営んでいたが、彼が大学をドロップアウトし音楽に夢中になっていたことで、父親とは絶縁状態だったという。TVから流れる息子の歌声に気づいた山下さんの父親は、以来、山下さんの生き方について何も言わなくなったそうだ。
1976年1月、朝日麦酒は「三ツ矢サイダーキラキラグラスプレゼントキャンペーン」を展開する。「三ツ矢サイダー」をケース単位で購入すると、化粧箱入りの特製グラスをプレゼントするというもので、清涼飲料の需要期である春になる前に、まず家庭内でのシェアを押さえてしまおう、というのが狙いだった。テレビCMに出演したのは二代目“サイダーガール”秋吉久美子さん。
「(サイダー♪サイダー♪)ちょっと光が差してキラキラ、三ツ矢サイダー♪」
キャンペーンのキーワードをさりげなく織り込んだドゥーワップスタイルのCMソング(『三ツ矢サイダー’76』作詞・伊藤アキラ)は、山下さんがボーカルとコーラスを一人で多重録音したものだ。「三ツ矢サイダー」のCMソングは翌年再び大瀧詠一さんに戻るが、大瀧さんは後年、数多くのCMソングを手掛けた音楽プロデューサー大森昭男さんとの対談でこう明かしている。
「で、大森さんにはっきり言いました。僕は三年やったし、シュガー・ベイブもナイアガラからデビューします。お約束は果たしましたから、次回は一つ、シュガー・ベイブでお願いしますって。まさかシュガー・ベイブが翌年解散するとは思ってなかったですからね(笑)」(『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男ともうひとつのJ-POP』 )
ともあれ、これらのCM音楽で認知を獲得した山下さんはソロアーティストとしての確固たる地位を確立。その都会的なリズムとさわやかな世界観は特に飲料との相性が良く、山下さんはその後も「コカ・コーラ」(1979年、1982年)、「サントリーギフト」(1983年)、「UCC缶コーヒー」(1988年)、「キリン ゴールデンビター」(1992年)など多くの飲料関連企業のCMに楽曲を提供した。
山下さんはCM音楽の意義について、かつて自身のCDのライナーノーツでこう語っている。
「コマーシャル・メディアはどこまで行っても所詮は『虚』の作業でしかないというジレンマをかかえてはいますが、時代の息吹を敏感に吸収し、新しい可能性を積極的に取り入れようとするCM業界の貪欲さは、若い才能を育てる場としての大きな役割を常に果たして来ました。ますます激しさを増すレコード・メディアのタイ・アップ至上主義、ヒット至上主義とは一線を画して、CMメディアの好奇心や冒険心がいつまでも失われないことを祈ります」(『山下達郎CM全集 Vol.1 Second Edition』ライナーノーツより)
50年前に起こった炭酸飲料のマーケティング合戦が、揺籃期のニューミュージックと若手アーティストたちを支え、80~90年代にかけては若者のトレンドを形成した。その過程で生まれた音楽は、現在では“シティポップ”として当時を知らない世代や海外の音楽ファンからもSNSや配信サービスで熱い支持を集め続けている。企業にとっては今一度、CM音楽の持つ価値を見直すべき時代なのかもしれない。
【岸田林(きしだ・りん)】







