「コーヒーで日本を元気に」、創業100周年を迎えるキーコーヒーが築いた文化〈PR〉

1921年発売のコーヒーシロップは家庭でも気軽に楽しめるコーヒー関連商品として人気に
100年前、コーヒーは海外文化へのあこがれや夢の象徴だった。当時は喫茶店でしか飲めなかったコーヒーを、誰でも簡単に、おいしく飲めるようにしたいと長年活動を続けてきたのが、2020年8月に創業100周年を迎えるキーコーヒーである。

キーコーヒーが日本のコーヒー文化をどのように進化させてきたのか。同社の歴史と日本の喫茶店の歴史を振り返ってみたい。

キーコーヒーは、1920年(大正9年)に、神奈川県・横浜でコーヒー商「木村商店」を創業したのが始まり。新しい時代を開く鍵という意味を込めたキーコーヒーというブランドマークは、当時から使われ続けている。

1921年(大正10年)には、コーヒーがまだ一般的とは言い難かった時代に、家庭でも気軽に楽しめるコーヒー関連商品として、希釈飲料の「コーヒーシロップ」の製造を開始した。清涼飲料水が少ないこの時代に、人々の暮らしの中でかけがえのない商品として浸透していったという。

戦後は、物資不足の厳しい中でコーヒーも流通していなかったが、コーヒー文化を絶やさぬため、味や品質にこだわり、風味をできる限り担保した代用コーヒー「NEAR COFFEE」を発売した。そして、1950年(昭和25年)には、人々のコーヒーへの渇望が一気に蘇ってきたことから、その想いを察知した木村商店の店主が生豆輸入の再開に奔走し、輸入再開実現まで精力的な活動を行ったという。そして、日本に2つの大きな喫茶店ブームが訪れた。

1953年のテレビ放送開始後は、喫茶店にプロレスや野球観戦を楽しむ人も集った

1953年のテレビ放送開始後は、喫茶店にプロレスや野球観戦を楽しむ人も集った

 
〈昭和時代に訪れた2つの大きな喫茶店ブームを支える〉
1950年代に起きたひとつめの喫茶店ブーム当時は、コーヒー生豆の輸入が再開するとともに、特需による好景気があった。生活者に消費余力が生まれ、喫茶店が増加していった。住居の充実まで手が回らない人々にとって、喫茶店は、いわば応接間やロビーの代わりとして利用されてきたことが背景にあったという。
 
1953年(昭和28年)には、テレビ放送が開始され、喫茶店では「テレビありマス 1杯50円」などの看板が掲げられ、プロレスや野球観戦を楽しむ人々も集まってきた。
 
1960~70年代の2つめの喫茶店ブームは、高度経済成長期の時代にあたる。1960年(昭和35年)にコーヒー生豆の輸入自由化が始まり、世の中は東京オリンピックやいざなぎ景気で沸いていた。 脱サラブームが起き、インベーダーゲームが人気となったのもこの頃だ。
 
外食支出と喫茶店数を見ると、1965年時(昭和40年)は、家計に占める外食支出の割合は7%で喫茶店数は約2万軒、1970年(昭和45年)は10%・5万軒、1980年(昭和50年)は14%・14万軒と年々広がっていった。 そして、地価の上昇と、飲食店立地の郊外化も年々進んでいったという。
 
このような喫茶店ブームの中、キーコーヒーは全国に営業網を広げていった。各地の喫茶店に対し、多様なコーヒーや周辺器具などの品揃えを充実させ、ワンストップで注文を済ませることができる取り組みを行ってきた。そして、販売にとどまらず、きめ細かいフォローとアドバイスをしてきたことにより、喫茶店オーナーなどからの信頼を積み上げることで取り扱いを広げていった。
 

1973年からアドボードの配置を開始。鍵のマークの看板が、喫茶店文化の象徴に

1973年からアドボードの配置を開始。鍵のマークの看板が、喫茶店文化の象徴に

 
喫茶店文化の育成に向けた代表的な取り組みのひとつには、1973年(昭和48年)から開始したアドボードの設置がある。これは、多くの人が目にしたことのある鍵のマークの看板で、喫茶店文化の象徴となったといえるだろう。登場するや、たちまち多くの喫茶店などに受け入れられ、全取引先業務店の4分の1まで普及したという。
 
その中でも、最も有名な喫茶店は、 アニメ「タッチ」のヒロイン、浅倉南のお父さんが経営している「南風」だろう。 アドボードの全国展開は、日本の喫茶店文化の広がりに大きく貢献することとなった。
 

「コーヒー教室」を開催、コーヒーの正しい知識を社会へ発信

「コーヒー教室」を開催、コーヒーの正しい知識を社会へ発信

 
〈37万人が受講した「コーヒー教室」〉
キーコーヒーによるコーヒーを身近にする取り組みは、喫茶店向けの活動だけではない。コーヒーの正しい知識やおいしい飲み方を多くの人々に知ってもらうために1955年(昭和30年)から「コーヒー教室」を開催してきた。現在まで65年の歴史がある息の長い活動だ。コーヒービギナーだけでなく、喫茶店開業予定者には経営手法も含めて伝える内容で、受講生はのべ37万人にのぼるという。
 
多くの人たちにおいしいコーヒーを体験してもらうため、百貨店などでもコーヒー教室を開催したところ人気となり、1960年(昭和35年)には、当時開局したばかりのNETテレビ(現在のテレビ朝日)で提供番組「コーヒー教室」の放送も開始した。
 
日本では、コーヒーへの関心の高まりを背景に、さまざまなコーヒー豆が輸入され、抽出方法や飲み方も多様化してきた。「コーヒー教室」は、現代の人たちがもっと身近にコーヒーを楽しめるように、今年リニューアルすることを計画している。
 
〈コーヒーの国内消費量が拡大する中、変えるものと変えないもの〉
時代の変化とともに、人々のコーヒーの飲み方や飲まれる場所も変化してきた。だが、キーコーヒーは、「コーヒーをもっと身近に」の考え方のもと、これまで同様に喫茶店を支援する取り組みをより丁寧に取り組んで強化する。一方で、新しいコーヒー文化の創造にも挑戦する考えという。
 
喫茶店の活性化に向けては、多くの業界で地方支店などに集約されつつある中、キーコーヒーは日本全国に営業網を敷いた活動を続けている。これは、全国各地の喫茶店を中心としたホテルやカフェなどのニーズにきめ細かく対応するためだ。有名な観光地はもちろん、離島や山の中の得意先もある。八丈島、佐渡、スキー場のゲレンデ、尾瀬の山小屋、上高地の奥地、秘境の温泉などの旅先で、キーコーヒーの看板や商品を見ると、こんなところまで営業活動にきているのかと驚かされることも多い。
 
そして、キーコーヒーの看板を掲げる店舗は、映画やドラマのモデルとなる店も少なくない。吉永小百合さんの出演で話題となった「ふしぎな岬の物語」(2014年公開)のモデルとなった「岬」(千葉県鋸南町)や、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」(2013年)の舞台となった喫茶店「モカ」(岩手県久慈市)も実在する。すべて地域の人と人をつなぐコミュニケーションハブとなる存在だ。
 

カフェの開業から運営までを支援する新業態の「キーズカフェ」

カフェの開業から運営までを支援する新業態の「キーズカフェ」

 
また、アドボードを掲げる喫茶店は減っているが、今ではセルフカフェでありながらキーコーヒーでもトップランクのプレミアムコーヒー「氷温熟成珈琲」をネルドリップで提供する「KEY’S CAFÉ (キーズカフェ)」へと形を変えている。キーズカフェは、セルフ型のカフェの出店に必要なアイテム(コーヒー、メニュー、コーヒーマシン、カップ、食材など)が全てパッケージ化されているため、店舗オーナーは、一部のレギュレーションを除き、出店環境に応じて柔軟にカスタマイズができる。また、フランチャイズのように加盟金、ロイヤリティなども不要のため、比較的ローコストで出店が可能となる。このキーコーヒーがカフェの開業から運営までを支援する新業態は、現在全国75店まで増加している。
 

泡のアイスコーヒーができる「コールドクレマ」、新しいコーヒーのトレンドとして注目される

泡のアイスコーヒーができる「コールドクレマ」、新しいコーヒーのトレンドとして注目される

 
新しいコーヒー文化の創出に向けては、業務店向けにさまざまな飲み方提案を行っており、若年層などへのアプローチを強めている。その代表例が、泡のアイスコーヒーを作ることのできるサーバー「COLD CREMA(コールドクレマ)」。2017年からカフェや飲食店向けに提案している。空気を取り込んで泡立てるため、コンパクトサイズできめ細やかな泡(クレマ)とまろやかで甘みのあるコーヒーが楽しめる。朝や昼に飲むイメージの強いコーヒーだが、泡が加わると黒ビールのような見た目で、まろやかな味わいになる。カフェや飲食店、バーなどで夜の時間帯の提供が進めば、若者を中心に新しいコーヒーのトレンドとして支持されそうだ。
 

コーヒーを通じて人と人をつなぐ活動はこれからも続く

コーヒーを通じて人と人をつなぐ活動はこれからも続く

 
〈コーヒーの力で日本を元気にしたい〉
100年前、憧れの存在であったコーヒーは、今や手軽に楽しめる飲み物になったが、喫茶店やカフェは、もはや食べ物や飲み物を提供するだけの場所ではない。時には安らぎの場として、時には非日常を体験する空間として、そして時には新たな情報やムーブメントを生み出す発信地として、さまざまな社会的な役割をもった場所となっている。
 
同社の柴田裕社長は、100周年に向けたメッセージとして、次のように話す。
 
「おいしいコーヒーを通じて、まだまだ知られていない日本各地の魅力を知っていただき、地域振興のお役にも立ちたい」
 
キーコーヒーの100年の活動は、コーヒーを通じて人と人をつなげること、そして地域活性化に貢献することを通じて、人々の心が通い合う「心のインフラ」をつくる100年だったといえるだろう。