〈米穀VIEW〉先物はコメ生産・流通円滑化に「必要かつ適当」か/“最後の”本上場検証(1)世界初の先物は日本のコメだった

米麦日報ではこれまで、コメ先物の認可・不認可が俎上にのぼる都度(つまり2年に一度)、検証を行ってきた。今回も同様の連載に取り組む。ただし今度こそ「最後の」試験上場期限、「本上場」か「上場廃止」かの二者択一を迫られることから、今回が「最後の」連載となるはずだ。まずは、現在までの経緯を振り返る。

世界で初めて組織化された先物取引所の原型が誕生したのは、アメリカのシカゴではない。日本の「大坂」は堂島、それも米だった。

米もそうだが、先物が農産物から発祥した理由は、さまざまある。第1に、当時は経済に占める農産物の割合が高かったこと。第2に、その農産物は、生産が天候に左右されること。特に米のように保存性が高い場合、第3に、収穫物を倉庫に保管し、1年かけて消費する特徴があること。一言で言えば、「需給バランスが崩れやすく、価格変動も大きい」産品であるため、これらリスクをヘッジする手段が求められざるを得なかったことがあげられる。

加えて「日本の米」の場合、世界的にも珍しい例だが、単なる穀物のはずが「貨幣」として機能し、流通していた背景がある。江戸時代は特にこれが顕著で、武士の給与は「扶持米」(俸禄)だったし、領地からの収入も「知行米」(領地米)だった。

江戸時代当時の米の生産量は約2,700万石(約400万t)と考えられており、現在の半分程度にすぎないが、それは人口が日本全国あわせても3,000万人強しかいなかったためで、1人あたり消費量は遙かに多い。武士や商工業者といった都市生活者の場合、年1.2石(180kg)というから、現在の3.5倍ほどにあたる。

さらに何故「大坂」かと言えば、年間流通量500~600万石(75~90万t)のうち150~200万石(22.5~30万t)が「大坂」に流入、江戸への流入は100万石(15万t)程度に過ぎなかったから。1672年(寛文12年)、幕府の命で西廻り航路、つまり物流ルートが整備され、中之島や堂島など堂島川や土佐堀川沿いに、最盛期135もの蔵屋敷が存在したとか。

江戸時代の豪商、淀屋の二代目・言當(げんとう)が、中之島に私財を投じて淀屋橋をかけ、米市(こめいち)、つまり米の現物市場を開設したのが、西暦1600年代の初頭と言われている。

この当時の藩米、今で言えば政府米の売買は、米問屋との間での指名入札制で、売り捌きを藩が町人蔵元(米商人)に委託、代金収納と送金を藩が指定した両替商に委託する恰好をとっており、米問屋と町人蔵元との間で「米手形」(3分の1の手付金で発行)、米問屋と両替商との間で「米切手」(倉荷証券、残り3分の2を添えて発行)がやりとりされていた。淀屋の米市で、価格変動に対応するため行われていたのが、「つめかえし」。米価下落時、借りておいた米切手を売却しておき(売ヘッジ)、上昇時は買いつなぎ(買ヘッジ)で損失を埋めていたのだ。

しかし1660年(万治3年)、米価の高騰と激しいインフレに伴い、手付金だけの米手形が廃止されてしまう。そこで淀屋の米市が始めたのが、帳合米(ちょうあいまい)取引だ。これが後の先物取引の原型とされる。1697年(元禄10年)になって米市は堂島に移転、堂島米会所(こめかいしょ)を名乗る。時の幕府は8代将軍、徳川吉宗。1716年(享保元年)の「享保の改革」が有名だが、1730年(享保15年)になって、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の名で、堂島米会所を「公許」した。

これが世界的に見ても先物の最初と言われている。シカゴ商品取引所が誕生するのは118年後の1848年。そのシカゴすら先物の発祥を「DOJIMA」と認めており、世界中の共通認識なのだが、日本では一般にあまり知られていない。原因は先物に対する無理解にあって、それがため堂島米会所のその後の歴史は、決して順風満帆とはならなかった。幕末の混乱期、米価が暴騰したことがある。

その原因を先物に求め、1869年(明治2年)、明治政府が「賭博に類するもの」との認識に立って、堂島米会所を廃止してしまう。ところが価格指標が喪失して混乱に拍車をかけたため、2年後の1871年(明治4年)、堂島米会所はアッサリ復活する。1893年(明治26年)、「(株)大阪堂島米穀取引所」に改組。1918年(大正7年)の米騒動を契機にまたも「停止」に追い込まれるが、米価暴騰を機にすぐさま「取引再開」されている。

ところが、ついに命脈を断たれる時がやってきた。1939年(昭和14年)、「戦時統制下だから」を理由に停止。その3年後の1942年(昭和17年)、まさしく戦時統制法である食糧管理法がスタートしている。ここからコメ先物復活まで、実に72年を要した。

〈米麦日報2021年3月31日付〉