ネスレ日本・島川社長「好奇心ときくちから」が経営の原点
「ブランドを支えるのは人」、次世代に価値を残す
ネスレ日本の島川基社長兼CEOには、若い頃、社内会議で自分の意見を強く主張し、上司から厳しく叱られた経験がある。そこで学んだのは、正しい答えを示すことだけでなく、相手の話を聞き、自ら考えて判断できるようにすることの大切さだった。島川氏が今も大切にしているのが「好奇心ときくちから」、そして「リスペクト」だ。
営業からマーケティング、スイス本社での経営戦略、デジタル・EC改革、飲料事業の統括まで、幅広い経験を積み、2026年7月に社長へ就任した。「ブランドをブランドたらしめている人の力の方がすごい」。社員や取引先への敬意を忘れず、次の世代に新たな価値を残す。島川氏が目指す経営の姿と、その根底にある考え方を聞いた。
〈上司に叱られた経験が転機に、「好奇心ときくちから」〉
島川氏は1979年に岩手県で生まれ、東北大学を卒業後、2002年にネスレ日本へ入社した。就職活動では、世界に事業を展開していること、社会への貢献が目に見えること、そして何らかの分野で世界一の強みを持つことを重視したという。
学生時代にタイへ短期留学し、自分とは異なる考え方や価値観に触れた経験も大きかった。それまで知らなかった世界に出会い、新しいことを学ぶ面白さを実感した。この経験が、グローバル企業を志望するきっかけになった。
入社当時、印象に残っていたのが、彫刻家・外尾悦郎氏が出演する「ネスカフェ ゴールドブレンド」のテレビCMだった。「こんなCM作ってる会社かっこいいな」と感じたという。その外尾氏とは、2020年からのスイス本社勤務時代に、スペインのサグラダ・ファミリアで実際に会うことができた。
島川氏は、知識や経験が増えるほど、自分の知らないことにも気付くと考える。年齢や立場にかかわらず好奇心を持ち続け、人の話に耳を傾けることを大切にしている。
もっとも、若い頃から相手の話を聞くことが得意だったわけではない。自分が正しいと信じたことを、強く主張する面もあったという。
転機となったのは、同僚の商品企画について話し合う社内会議だった。自分の考えを積極的に述べ、本人は良い提案ができたと思っていた。しかし、会議後、上司から厳しく叱られた。
会議を長引かせ、周囲の貴重な時間を使ったことに加え、同僚の仕事を良くするための助言と、自分の考えを押し通すことは違うと指摘された。
当初は納得できなかったが、時間がたつにつれて、その意味を理解したという。
たとえ自分の意見によって良い結論が得られても、相手が納得し、自ら判断できるようにならなければ、組織として同じ成果を再現することは難しい。結果だけでなく、そこに至る過程も重要だと考えるようになった。
その経験から、自分の主観と客観的な視点を併せ持ち、相手に気付きを与えることの大切さを学んだ。
マーケティング部門に異動した際、先輩から「尊敬と感謝を常に忘れるな」と助言されたことも、今なお心に残っている。
マーケティング担当者は商品の方向性や広告、パッケージなどを判断する立場にある。しかし、自分一人で商品を開発したり、デザインを制作したり、製造したりできるわけではない。多くの専門家や取引先の力があって初めて事業が成り立つ。
「尊敬と感謝」は、判断する立場になった時ほど忘れてはならない価値観だという。
〈営業から海外、DXまで経験 日本の価値を世界へ〉
入社後は東京支店で営業を経験し、2009年に営業本部のカテゴリープランナー、2011年には飲料事業本部のブランドマネジャーに就任。2014年に液体飲料ビジネス部長、2016年にはレギュラーソリュブルコーヒービジネス部長を務めた。「ネスカフェ」を中心に、ブランド育成と事業運営の経験を積み重ねてきた。
2020年からのスイス本社勤務も、大きな転機となった。アジア・オセアニア・アフリカ地域の経営戦略策定に携わり、国や事業部門を超えて各市場の強みや課題を捉える仕事だった。
日本の事業だけを見ていた時とは異なり、各国の市場環境や事業規模を比較しながら、成長機会を見極める視点が求められた。
特に印象に残ったのは、日本で成功した商品やサービスが、そのまま海外で通用するとは限らないということだった。
なぜ日本で支持されているのか。消費者の生活習慣や住環境、商品に求める価値は何なのか。そうした背景まで説明できなければ、他国にとっての学びにはならない。
「日本は違う、特別だと言ってしまうと、そこで会話が終わってしまう」。この言葉には、世界の中で日本の事業を捉え直した経験が反映されている。
2022年に帰国すると、執行役員デジタル&Eコマース本部長に就任。Eコマース事業の改革や全社横断のデジタルトランスフォーメーション(DX)を推進した。2023年には常務執行役員に昇格し、新規ビジネス開発部長も兼任。営業やマーケティングだけでなく、デジタル技術を活用した顧客接点の改革にも取り組んだ。
2025年7月には常務執行役員飲料事業本部長に就き、「ネスカフェ」と「スターバックス CPG」の両ブランドを統括。伸長するコールドコーヒー市場への対応を進め、2026年7月に社長兼CEOへ就任した。
デジタル分野を経験した島川氏は、経営者の役割についても明確な考えを持つ。判断基準を示し、最終的な責任を引き受けることだ。「AIは責任を持たない」。技術が進化しても、判断し、その結果に責任を持つのは人間だと考えている。
〈就任90日で実感、「ブランドを支えるのは人」〉

島川氏は社長就任後、約90日間にわたり役員や社員との対話を重ねてきた。経営者が一方的に方針を示すのではなく、社員とともに会社の将来を考えたいという思いがある。
長く携わってきたコーヒー事業に加え、菓子や栄養・健康、ペットケアなどの取り組みを改めて知る中で、多くの発見があったという。
特にヘルスサイエンス事業では、高齢者の栄養課題に向き合い、長年にわたって製品を進化させてきた社員の情熱に驚いた。ペットケアでも、長期間の研究開発によって蓄積された技術や知見が、製品の価値を支えている。
「ブランドをブランドたらしめている人の力の方がすごい」。長い歴史を持つブランドも、それを育て続ける社員がいてこそ価値を維持できる。島川氏は、社員の専門性や情熱を生かすことを重視する。
CEO在任中に実現したいことは、大きく3つある。
第一は、ネスレ日本が日本社会に提供する価値をさらに広げること。事業を通じた社会課題の解決やCSV(共通価値の創造)の取り組みを強化し、企業としての信頼や存在感を高める。
第二は、次の10年、20年を支える新たな成長の柱をつくること。既存ブランドを育てながら、将来のネスレ日本を支える事業を生み出す考えだ。
第三は、ネスレ日本から世界のネスレグループへの貢献を大きくすること。日本で培った技術や商品、消費者への理解、取引先との協業などを世界に広げていく。その担い手となる人材の育成も重視しており、海外で働く意欲を持つ日本人社員を積極的に送り出したいと考えている。
これらを実現するうえで、島川氏が社員に伝えているのが「シェアード・オーナーシップ(当事者意識の共有)」だ。
会社は社員の声に耳を傾け、成長機会を提供する。一方、社員にも会社の将来に主体的に関わり、自ら考えて行動することを求める。
単に意見を述べるのではなく、物事を良くするために声を上げてほしい。失敗を恐れず、一歩踏み出してほしい。そうした思いを社員に伝えている。
経営方針を共有するため、役員間の対話を重ねるとともに、従来は半年に1回だった全社員向けの集会を、2026年は四半期に1回の頻度に増やしている。社内SNSでも自らの考えを発信し、社員との対話を深めている。
若い頃、上司から学んだ「聞くこと」の大切さが、現在の組織づくりにもつながっている。
〈「活動が先、発信は後」社会への貢献を重視〉
日本社会への貢献を広げるうえで、島川氏が重視するのは、社会にとって意味のある活動を積み重ねることだ。
日本では「ネスカフェ」や「キットカット」は広く知られている一方、それらを展開する「ネスレ」という企業自体の認知度は、商品ブランドほど高くないという。
企業としての認知や信頼を高めるために、広告を増やすだけでは十分ではない。企業としてどのような価値を社会に提供できるかが重要になると考えている。
具体例として挙げたのが、保護猫と新しい家族の出会いを支える「ピュリナ ネコのバス」や、地域の高齢者の交流を支援する「介護予防カフェ」などの活動だった。
ネスレ日本のサステナビリティ資料によると、「ネコのバス」は2018年の活動開始以来、100回以上の譲渡会を実施し、300匹以上の保護猫が新たな家族に迎えられた。「介護予防カフェ」も、神戸市との連携により2025年3月末までに市内で96カ所が立ち上がっている。
「ネコのバスの広告は打たない」。島川氏は、企業イメージを高めるために活動を行うのではなく、活動そのものに社会的な意義があることを重視する。その積み重ねが、結果として企業への信頼につながるという考えだ。
そうした企業姿勢を生活者に伝える役割として期待しているのが、「ネスレ日本の係長ハイジ」である。
同社は2026年6月25日、「アルプスの少女ハイジ」[AS1.1]の主人公がネスレ日本に入社したという設定で公式SNSアカウントを開設。CSVやサステナビリティなどの取り組みを紹介している。
島川氏は、ハイジに対する好意的な反応が予想以上に大きかったと振り返る。一方で、活動と発信の順序を間違えてはならないと強調する。まず社会のために何ができるかを考え、実際に行動する。その取り組みをハイジに伝えてもらうことが本来の姿だという。
ネスレは「食と飲料の持つ力で、現在そしてこれからの世代のすべての人々の生活の質を高めていきます」というパーパス(存在意義)を掲げる。島川氏も、事業を通じた社会課題の解決は企業の使命であり、成長の機会でもあると考えている。
世界的な研究開発力を持ちながら、日本の消費者や地域社会の課題にも向き合う。ネスレ日本だからこそ提供できる価値を広げることが、島川氏の目指す経営の一つの柱となる。
〈何十年後の人たちにも喜んでもらえるものを〉
仕事を離れると、週末は自ら料理をする。食材の買い物にも出かけるが、料理の時間だけは効率を考えたくないという。
仕事では成果や投資対効果を重視する一方、料理ではあえて効率を優先せず、時間をかけることも楽しむ。
島川氏は、入社当初から社長を目指していたわけではない。憧れていたのは「ネスカフェ」のマーケティングを担い、コーヒー事業を率いることだった。
長い歴史を持つブランドを受け継ぐ一方、過去の成功に頼り続けるだけでは、その価値を次の時代に残すことはできない。
「今は、その時代につくられたブランドの資産で食べさせてもらっている」。だからこそ、何十年後の人たちにも喜んでもらえるものを、自分たちの世代がつくる責任があると語る。







