全油販連(全国油脂販売業者連合会)はこのほど、油脂未来セミナーを都内で開き、油と油問屋の歴史や、油脂業界の現状を学ぶ研修会を行った。油脂未来セミナーは今年度からスタートしたもので、若手を中心とした油脂営業人が集まり、研修会や見学会などを通じて、必要な知識・知見などを身に付けることを目的としている。

始めに、宇田川公喜・全油販連会長が油と油問屋の歴史について簡潔に解説した。それによれば、貞観年間(859年~)に離宮八幡宮が建立されると共に、神官が「長木(ちょうぎ)」と呼ばれる搾油器を開発し、えごま油を搾油し始めたのが、日本での搾油の始まりと紹介。当初は神社仏閣の燈明油として奉納され、離宮八幡宮は「油祖」の名を賜り、油座として油の専売特許を持ち栄えていった(離宮八幡宮の許状無しには油を取り扱うことはできなかった)。

中世では油はぜいたく品であり、当初は神社・公家が燈明に用いるだけだったが、貨幣経済の発達と生活水準の向上につれて、地方豪族なども夜間照明のため油を求めるようになり、商才に長けた油座が突出した勢力を得るに至ると解説。その中で、故司馬遼太郎の小説「国盗り物語」の主人公で戦国大名の斉藤道三は、油商人として成功を収めたところから下剋上を果たしていったことに言及した。

〈「明暦の大火」きっかけに油問屋が江戸で開業、明治30年代に大豆搾油開始〉
江戸時代に入り、商業の中心地・大坂に次いで、江戸でも問屋が徐々に増えていったが、本格的に増加したのは、江戸城の本丸まで焼けた「明暦の大火(1657年)」以後のことと紹介。大火の再建にはあらゆる物資が不足し、大坂から取り寄せるだけは間に合わなくなった経緯から、江戸にも油問屋や酒醤油問屋などが相次いで開業。そして万治3年(1660年)には東京油問屋市場の前身となる、油問屋寄合所が霊岸島(中央区新川周辺)に設置されるに至ったとした。霊岸島は海上交通の拠点として、大坂からの「下りもの」の荷揚げ場として機能した。

なお当時の油の仕入れには、「送り込み」と「買い出し」と呼ばれる方法があったことを紹介。「送り込み」とは荷主の裁量か問屋の注文を基に、荷主から問屋に油を送る方法、「買い出し」は、問屋が産地に出張して、その場で契約して仕入れる方法だが、問屋が力を付け、複数の荷主からの売り込みを待った方が有利な契約ができたため、「送り込み」が中心だったと説明した。こうして江戸期の問屋は力を付け、「十組問屋」という仲間組織を結成するに至ったとした。

江戸期の油は夜間照明の灯明油としての需要がほとんどであり、江戸の繁栄と比例して需要は増加の一途をたどり、必需品となったが、大部分は大坂からの「下り油」であり、幕府は問屋の保護政策により、灯明油の確保に努めたこともあって、当時の油問屋は財産家が多かったとした。ただ幕末には、総需要のうち「下り油」は6割であり、4割は関東などで搾油された「地廻油」だったことも紹介した。

そして1881年(明治14年)に東京油商組合が設立され、1901年(明治34年)には東京油問屋市場が成立。その間、夜間照明は石油ランプ、電気へとシフトするなかで、植物油は食用需要が高まった。当初は輸入に依存していたが、1886年(明治19年)には四日市製油(現九鬼産業)が英国から輸入した搾油器でごま油・菜種油生産を開始し、1888年(明治21年)には摂津製油も菜種搾油を開始した。

さらに大豆搾油は明治30年代にはじまり、1907年(明治40年)には日清豆粕製造(現日清オイリオグループ)が創立され、大豆油・大豆ミール製造を始めた。宇田川会長は「当時は大豆ミール製造がメーンであり、ほとんどが肥料として使われていたようだ。1913年(大正2年)の大豆油生産は3万8,000tとされており、菜種油の20万9,000tに対しても少なかったようだ」とコメントした。

〈この項、続く=戦時統制体制下から全油販連発足当初の活動をたどる/油脂未来セミナー

〈大豆油糧日報 2018年6月20日付より〉

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